山田瑞穗 Dr.Yamada Mizuho

近頃便利な電子ブック「広辞苑」

山田三不歩
『渋柿』1016号(1998/12)より

 俳句を作るにも、文章を書くにも座右に辞書は欠かせませんが、しっかりした辞書は大きく、重たく、頁を繰るのも大変なことであります。内需拡大の意味もあって、新聞広告を見て広辞苑の電子ブックを購入しました。11×16×3cmの大きさで、軽く、電池でもACアダプターでも使用でき、仮名かローマ字で入力すれば、すぐに単語が出て来、その内容は辞書を引くのと全く同じで、億劫がらずに、何でも、何回でも辞書を引くことができます。少々値が張りますが、こんな便利なものはありません。あまり便利なので、用もないのに、色々単語を引いて、読みふけり、つい辞書遊びをしてしまうこともあります。
 この広辞苑で引いてみますと、「大連」は「だいれん」として出ています。私と同じ大連一中出身の清岡卓行著「大連港で」の「だいれん」か「たいれん」か(福武文庫)によると、広辞苑の初版では「たいれん」が主で「だいれん」が副で項目だけ、第二版では「だいれん」の項目は消え、「たいれん」の下に第二発音とし付記されているのみで、これに対して彼は岩波書店社長に異議を申し述べ、第三版では、「だいれん」を主とし「たいれん」を副とする読み方に改めて貰ったということです。その経緯については詳しくは書きませんが、間違いの元は中国語の発音表記のdの発音の仕方によるもので、森鴎外の「大連のいり海」、夏目漱石の「満韓ところどころ」に「タイレン」とルビが打たれていたことによるもののようです。満洲、特に大連に住んだことのある人達にとっては「だいれん」であり、日本内地にいた人々は「たいれん」と発音していたようですが、明治38年1月の公式の書類には「青泥窪(ダルニー)を大連(ダイレン)と改称す」とあって「だいれん」が歴史的にも正しく、「たいれん」は慣用されてきたものに過ぎないということであります。ただそれだけのことですが、清岡氏を含め我々旧大連人にとっては極めて重大なことなのです。
 医学用語についても、これと同じことが言えます。以前、本誌に「予後という言葉の使い方」について投稿し、予後という言葉は疾病のその後の経過の予測として使うものであることを述べましたが、その後の渋柿誌を見ると依然として、「予後」を病後の意味で使っておられる句が見られます。「秋袷予後始めての神詣」と言う句を拝見して、私にはこれはもう何を言っておられるのか全くわからないのであります。徳永山冬子著「渋柿俳句入門」261頁に「予後という語が病後と同じように使ってあります。然し予後というのは病気のたどる経過についての医学上の見通しを指す語で、病後とは全然ちがいます。よく混同された句を見かけますが注意して頂きたいものです」とあります。
 私は俳句についてとかくの批評などすることのできない未熟者ですが、四十年あまり医学に携わって来ましたので、医学用語を間違って使っておられることを看過することはできないのです。ことのついでにもう少し申しますならば、
 「秋暑やげぢげぢ眉にメラノーゼ」とはどういうことなのでしょうか、メラノーゼまたメラノーシスとは異常な色素沈着を特徴とする状態をいう医学用語で、これを含んだ病名もあるにはありますが、何か勘違いをして居られるのでしょう。ついでにげぢげぢ眉というのも全く嫌味な言葉のように思います。
 「『オペ』と言ふ一と言にある寒さかな」「オペ」という語が時々見られますが、オペラチオンの意味でしょうか、医者・看護婦仲間で手術の略語として用いられていましたが、なぜ殊更にこのような隠語めいた気障な言い方を俳句の中に入れなければならないのでしょうか。ナースという言葉も同様です(ナースステーションはいいとして)。
 「退院と医師の一と言四温晴れ」「医師」と書いて「どく」とルビを振っておられるのはどういうお気持ちなのでしょうか、医師はドクターであっても絶対にドクではなく、またこれを俳句に入れ込まねばならないお気持ちが理解できません。
 「診察を終へし安堵や風涼し」は患者さんとして診察が終わったのならば、「診察の終わりし」ではないでしょうか、。診察は医師がするもので、もし医師が診察を終えてとすると、安堵とは結び付きません。
 「梅雨寒や時折痛むメスの痕」メスという道具のあとということはあり得ず、メスを手術と同義に解しておられるのでしょうか。当然、手術後の傷の痕であろうと思われます。メスという語も俳句にはそぐわない気障な語のように思います。
 言いたい放題を言わせていただいた弾みで、もう少し暴言を吐かせていただきますと、
「『暗夜行路』の碑も古りにけり花木槿」
「暗夜行路の碑文も古りぬ花木槿」また、
「無人店秋茄子ばかり盛られけり」
「無人店秋茄子ばかり並びをり」
 渋柿誌の同じ号の同じ頁にほとんど並ぶようにして拝見しました。あまりにも似過ぎています。同じ勉強会での仲間同士の共通話題ででもあったのでしょうか。  もう少し以前の渋柿誌で、どれにも「梅雨」「山鳩」「くぐもり鳴く」という語の含まれた句が幾つかあったことも思い出しました。同じ先生の指導を受けていると、作る俳句も似てくるのでしょうか。厳選されると同じような俳句が残ることになるのでしょうか。

 つい脱線してしまいました。伝統・俳句のメッカ愛媛県から程遠い僻地の一隅で、独り、悪戦苦闘している、季語の何たるかも理解していない一介の新人の妄言も、たまには他山の石としてお役に立つかも知れません。

暴言多謝。


(渋柿誌で一部削除された部分を筆者原稿通りに戻しています)

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