山田瑞穗 Dr.Yamada Mizuho

「人の死」とはなにか

山田瑞穗
論壇/朝日新聞(1992年1月22日)


 V・ジャンケレヴィッチは、その著書「死」において、一人称、二人称、三人称に分けて死を論じているが、視点を変えて、四つに、さらに端数をつけて死を考えることができる。

 一人称の死とは私(本人)自身の死であり、二人称の死とはあなたの死(他者ではあるが、自分と重なり合っている連帯的な、特権的な他者)、かけがえのない人(夫、妻、わが子)の死である。三人称の死とは紛れもない他者、彼、彼女の死、誰かある人の死である。そして最後に人称のない抽象的な一般論的な死があり、これを四人称の死と呼ぶことが出来る。

 脳死臨調などで論じられているのは、まさにこの四人称の無名の死であり、新聞などで報じられるのは三人称(無名であってもなくてもよい)の死であり、インタビューなどで語られているのは二人称の死であろう。

 一人称の死についてはだれも語ることができず、死の予測が知られているに過ぎないが、脳死論の中ではしばしば一般論的な死にすりかわっている。医師にとって患者の死は三人称の死であるが、主治医などとして共感をもってその人に接して来た医療従事者にとって、それは二人称の死に近づいて来て、二・五人称の死といえなくもない。

 医学的のみならず、法学的、社会学的、文化学的などの脳死論も結局は一般論としての抽象的な論議であり、四人称あるいは三人称の死(平静的な)についての議論である。しかし、現実に対面する「人の死」は特権的、連帯的な二人称を中心とする別離の悲嘆であり、喪失の苦悩であって、決して平静なものではない。「脳死は人の死」であるといい切ることに納得できない人々(医師をもふくめた)にはこの思いがあるに違いない。これを感情的、情緒的で議論にならないと退けることはできないであろう。二人称の死が四人称の死論に馴染まないのは当然であり、「人の死」はこの一人一人の死の集積である。

 人の生涯は出生と死の二点間の軌跡であり、決して直線的でなく幅を持っているが、始まりを終わりがある。しかし、出生も死も単なる点ではあり得ない。小さくても広がりがあり、その中を行き来し得るとすれば、死は三次元的というよりも四次元的かも知れない。その広がり中のどの一部分も死であろうが、そのどれかを「人の死」であるときめつけることはできない。しかし、その漠然とした死にも結局は終わりがあり、それをこそ「人の死」というべきではないだろうか。

 いわゆる心臓死といえども「人の死」であるといい切ることはできないかも知れないが、細胞はまだ生きている、うんぬんの極論を除けば、死という広がりからはみ出した、つまり「死の終わり」を「人の死」と見なして来たものと思われる。法的に重要な意味をもつ医師の「死亡診断書」はすでに死んでしまったことの確認であろう。

 判定基準等々の脳死の論議は、ある死にゆく状態の議論であっても、「人の死」であると断定することには問題があろう。むしろ、脳死は限りなく死に近いがまだ生きている状態、脳は死んでいるが肉体は生きている状態、あるいは完全に生きてはいないが不完全に生きている状態、死の中の生、などの表現が適切かも知れない。仮にも「人工呼吸器をつけた屍体(したい)」というべきではない。

 最後に、脳死と判定した後はどのように取り扱われるのであろうか。これに対する答えはほとんどない。脳死の後は人ではなく物であって、資源として利用できるものはすべて活用するとの論も公言されている。後々の利用のため臓器、組織を刈り取る( harvest )とか、新薬や新しい治療、手術手技の開発、実験も可能であるとかは、どのように受け止められているのであろうか。