山田瑞穗 Dr.Yamada Mizuho

デスマスク

 暖炉燃ゆベートーベンのデスマスク 三不歩

 デスマスクといっても、死んだ人の顔を石膏にとった、このデスマスクとは違います。

 いつの頃からか、葬式の最終段階で、いよいよ出棺となり、「最後のお別れです」と、棺桶の蓋を開けて、死者の顔を見て花を手向けることが習慣になっていますが、私はどうしてもその気になれません。 多くの場合、亡くなった方は長い患いのために、最早往年の元気なお姿ではなく、窶れ果ててとても見るに忍びません。 そこでお顔は直接見ずに、そっと足元に花を入れて失礼することにしているのですが、自分の死んだ時にも、おおぜいの人に自分の哀れな顔は見てもらいたくありません。

 いっそお面を被って死んで行けないものだろうか、と考えたのですが、まさかそこらのひょっとこの面を被るわけにもいきません。 では能面を被ったらどんなものだろう、それも自分で打った能面を被って焼いて貰うのもいいだろう、と七十幾つにもなって能面を打つことを思い立った次第であります。

 面打ちに関心が無かったわけではありません。 20年程前に無形文化財選定保存技術者、長澤氏春氏の展覧会を見て、能面を彫ってみたいと思った記憶があります。 しかし生来木を材料として刃物を扱うことが苦手で、鋸で眼玉を突いたり、小刀で指を落とさんばかりの怪我をした経験もあって、とても自分の手にはあわないと諦めていたのですが、「盲蛇に怖じず」で、初心者向けの教材と簡単なテキストを手に入れ、丸鑿やあれこれ道具を買い漁って、とにかくやってみよう、と独学で、「般若」に挑戦しました。

 さてどこから手をつけて、どのように彫っていったらいいのか、まさに、昔、はじめての難しい手術をした時のあの気分でした。 時間だけはたっぷりある毎日なので、悪戦苦闘、刃物を研ぐ難事も度を重ねて、また真鍮の板を叩いて眼球の曲面を作る手法もなんとかこなし、彫り三分、塗り七分、約二ヵ月で、ともかくも般若の面は完成しました。

 長閑(のどけ)さや人の顔なる眼鼻口 三不歩

 しかし、般若は女性の面ですから、これを私のデスマスクにするわけにはいきません。 能面に関する本をいろいろ買い集めて、さてどの面がいいか、と目下検討中であります。 女の面には「小面」(こおもて)や「孫次郎」など優雅なものがありますが、男の面には(もともと男は直面(ひためん)といって面を被らないことが多いようで)これという適当なものが見つかりません。 もはや死者なのだから、眼をくわっと開けたものよりも、眼をつむったものの方がいいという考えもあるのですが、「弱法師」(よろぼうし)は前髪のある少年ですし、「俊寛」「景清」は痩せ衰えていて、いかにも哀れであります。 「中将」は貴公子ぶっていていささか嫌味があり、「小牛尉」(こうしじょう)というのが上品な老人で一番魅力的なのですが、さてこれを彫るのにあたって参考にする適当なお手本があるかどうかであります。 これを見つけて彫りあげるまでは、うっかり死ぬわけにはいかないようです。