山田瑞穗 Dr.Yamada Mizuho

Doctorの宝物拝見:篆刻



驚くなかれ、篆刻を入れる筺も、ベニヤから作る先生のお手製。
鮮やかな張り地は中国・成都で買い求めた錦だそうです。




先生の趣味の数々。
帆船、焼きもののほかに、現在は豆本にも凝っています。

『皮膚の手帖』1997年12月号(かまくら春秋社)より
取材・安藤寿和子/撮影・永野一晃



 先生のお宅を訪ねると、表札には「山田瑞穗」の本名に並び、「三不歩」と俳号が。多趣味な御仁とは聞き及んでいましたが、これはこれは。
 現在、もっとも情熱を傾けておられるのは篆刻のようですが、ここへ至るまで、山田先生には並々ならぬ趣味の遍歴があるご様子。篆刻との縁も、その数々の趣味に導かれてのことでした。

 子供の頃は医者ギライの模型好き。船や飛行機を造る工学部志望で、事実、一旦は東北大学の工学部に入学したという先生の最初の趣味は、フィルムの空き箱で作る飛行機や自動車などのペーパーモデル。設計図も自分で引き、力作の数々をものするも、部屋中が模型だらけになるうえ、ホコリがつくとのことで、奥様から製造禁止令が出て断念。
 次にカティサークやヴィクトリアなどの木造帆船、ボトルシップなどを作りましたが、やはりホコリが立つのであきらめ、そのほとんどを大学に寄付しました。
 その次に熱中した焼きものでは、せまい官舎の六畳の書斎に手動の轆轤を据え、物干し用のベランダに電気窯を設置して瑞穗窯(?)を開くほどの入れ込みよう。
 この焼きものよりも前から、父君の趣味でもあった俳句に親しみはじめ、還暦の記念に句集を編む時、その装丁や頁の彩りにと手を染めたのが、石に字を刻し、朱を捺す篆刻であったとか。
 句集の年度ごとの見出しには、「華」「卵」などの篆刻印が使われ、頁に趣を添えています。
 自分のためのものだけでなく、恩師の米寿や同僚の栄転の記念にと、思いついたり、請われたりして作るのものがすこぶる好評で、時には腱鞘炎を患いながらも、寸暇を惜しんでは水中メガネのような拡大鏡をかけ、完成させた篆刻の数は500余り。98年の春には、篆刻で一冊の本を出版される予定だそうです。

 「螻蛄(ケラ)の芸ってどういう意味だか知っていますか?ケラはね、もぐる、泳ぐ、飛ぶ、木に登る…、あれこれするけれど、どれも上手やない。螻蛄の芸とは何でもやるけど、ロクでもないということなんですよ。それで私も、ほら」と渡された名刺には、“篆刻 螻蛄工房”との肩書。いえいえ、どうして。この洒脱味、小気味よいまでの徹底ぶり。こんなにも楽しみ深く、ゆたかな人生を歩まれる、生きかたそのものが、先生の宝物なのではありませんか?

やまだ・みづほ
昭和25年京都大学医学部卒業、国立京都病院、宇和島市立病院、島田市民病院、京都大学付属病院、大阪赤十字病院を経て、昭和52年浜松医科大学皮膚科学教授、同59年副学長、平成2年病院長、同6年退官、名誉教授。